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がん名医が末期がんに…それでも「治療しない」と語る理由
女性自身 2013年03月 配信
「誰にも言っていませんが、余命は1年もないでしょう」と自らの余命を語るのは、神戸市「新須磨リハビリテーション病院」院長の神代尚芳医師(67)。これまで約200人のがん患者を看取ってきたという神代医師。そんな彼が今、末期の肺がんに侵されているという。
がんが見つかったのは、昨年5月のこと。手術は、親友の医師により7月に行われた。だが現在、神代医師は抗癌剤や放射線治療などの治療を行なっていないという。「『大細胞型』のがんは抗がん剤が効きにくく、放射線治療も効果がないんです。だから、もう対応のしようがない。飲んでいるのも胃腸薬ぐらいです。もちろん、自分がこれまで患者に言ってきたことと違うことをするわけにはいかないという思いもあります」
これまで彼は患者への治療を必要最小限にとどめてきた。それは延命ではなく“自分らしい人生”を送ることに重点を置いた治療だった。神代医師によると、今の医療はやるべき治療を行なっていない一方で、やり過ぎだと思うことも多いという。「もちろん何でも放置すればいいというわけではないですよ。でも手遅れなのに手術を重ね、辛い治療を続けることで“最期の時間”を犠牲にしている人も多いんです」
そんな彼が20年間に渡り提唱してきたのが『完成期医療福祉』という考え方だ。「『死ぬことはこの世から消えてしまうこと』だと考えると耐えられないほど恐ろしい。でも『死は人生を完成させるもの』と思えば、怖くなくなる。つまり充実した最期をもって人生を完成させるということです。そのためには、管理された病院で死ぬのではなく、自宅などの自由でいられる場所で最期をすごす必要があるんです」
患者のために人生を捧げてきた神代医師の考える“人生の完成”。それは、独居老人が自宅に戻って充実した最期を迎えるにはどうすればいいのか。どんなサポートが必要なのかという答えを見つけることだった。「幸か不幸か、私はがんになりました。だから自らが実験台となり、それらを見極めたいと思うようになりました」
しかし、今年2月に脳への転移が発覚。“独居闘病生活”の試みは、断念せざるをえなくなったという。理想と現実の間で揺れ動く神代医師は、しみじみとこう語る。「今回、私は2度の手術をしましたが、これでよかったのかなと思うこともあります。でもそれは最期にならないと誰にもわかりません。医者といっても神や仏じゃなく、人間ですから。何がよかったかなんて最期までわからない。そんなもんです」
そんな神代医師を支えているのは、家族の存在だ。妻の実津子さん(58)がこう振り返る。「今回の独居をいちばん反対したのは、27歳になるひとり娘でした。『なんで最期なのにパパと一緒にいられないの!最期はパパと一緒にいたい』と強く反対したんです。主人は子煩悩でしたからね。その言葉も心に響いたようです」
夫を元気づけようと、実津子さんは日本舞踏の仕事を辞め、夫の介護に専念することを決意。神代医師はいま、妻の作ってくれる手料理を何よりの楽しみにしているという。実津子が続ける。「普段は毎日料理をつくるのなんて疲れると思うはずですけど、今は不思議と楽しいんです。体調がいいときは一緒にお酒も飲んだりするんですよ。もちろん、ほんの少しですけど(笑)。こんな生活は、病院だとできないでしょうね」
神代医師は『いざとなっても救急車を呼ぶな』と実津子さんに言い聞かせているという。実津子さんは、笑顔でこう語る。「実は24時間ずっと主人が家にいる生活なんて、結婚して30年で初めてのことなんです。がんになったのは残念ですが、その反面、いま初めて主人がいつも家にいる。娘にすれば『パパがいる』生活なんです。きっと神様が最期に幸せな時間を与えてくださったんじゃないでしょうか。そう思うようにしています」
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そんな田中さんにがんが発覚したのは昨秋のこと――。
「基本的に、宥久子先生は“病院嫌い”だったんです。めったなことでは病院に行かないのですが、昨年の夏ぐらいから『食欲がないの。夏バテしたのかな、私?』なんて言って、点滴を打ちに行ったこともあったそうです。診断は末期の肺がんでした。それも“余命半年”だと…。先生はがんと知ったとき『治療は必要だと思うけれど、“田中宥久子”をもうやらなくてもよいのだと思うとホッとした』と口にしていました」(仕事関係者)
田中さんは実生活で50代、実母の介護を経験。6年前の本誌取材で、こう振り返った。
「母が亡くなるまでの6年間、介護をしました。精神的にも非常に苦しい日々でしたが、このことによって自分の将来が見えて来たような気もしました。自分が経験して思ったのは、私は子供たちに絶対に、世話してほしいとは思いません。ひとりでずっと頑張っていこうと思っているんです」
シングルマザーとして身を粉にして働き続けて来た田中さんの“人生哲学”。介護の日々のなかで、娘たちに“自分と同じ苦労を味あわせたくない”と、固く心に誓ったのだろう。
「“余命半年”と知らされて、むしろ『ホッとした』というのも、娘さん達に心配や迷惑をかける時間が短くてすむ、というふうに解釈したからではないでしょうか。長生きできたとしても、娘たちに何年も介護させるほうが、宥久子先生には耐えられなかったんだと思います」
最期は、2人の娘さんと3歳になる男の子のお孫さんに看取られて、本当に安らかな笑顔で旅立たれたそうです」(美容関係者)
もうやらなくてもよいのだと思うとホッとした
きっと神様が最期に幸せな時間を与えてくださったんじゃないでしょうか。そう思うようにしています
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タモリ「引退するから世界一周を」がん逝去親友との涙の約束
女性自身 2/21(火) 0:00配信
http zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170221-00010004-jisin-ent
タモリ「引退するから世界一周を」がん逝去親友との涙の約束
2月13日、東京・目黒区の碑文谷会館の葬儀会場には、悲しみに暮れるタモリ(71)の姿があった。トレードマークであるサングラスの奥に光るものをたたえながら、じっと無言で祭壇の前に立ち尽くす。その視線の先には、「タモリカップ」のロゴ入りの帽子をかぶった男性の笑顔の遺影が。金井尚史さん(享年56)。数多の人気番組に出演してきたタモリがもっとも信頼を寄せていたテレビマンが、この金井さんだった。
「タモリさんとは90年代にラジオ番組『タモリの週刊ダイナマイク』で仕事をしたのが親しくなったきっかけだったと聞いています」(芸能関係者)
タモリと金井さんは、瞬く間に意気投合。2人の親密ぶりを、ニッポン放送関係者が明かす。
「金井さんは、相手の懐に入るのが早くてうまい。タモリさんと番組を始めたときもそう。タモリさんがヨットが好きだと聞くと、あっという間に1級船舶免許を取って周囲を驚かせた。以降、公私に渡って親しい付き合いを続けていました。毎年お正月はタモリさん宅で過ごしていましたし、『笑っていいとも!』が終わった直後のタモリ夫妻のヨーロッパ旅行にも、彼は同行していました」
タモリの夢の実現に一役買ったのも、金井さんだった。前出の芸能関係者は語る。
「タモリさんは昔から『ヨットレース=お金持ちのスポーツというイメージをなんとか払拭したい』と話してました。参加費を下げて、誰でも気軽に楽しめる、そんなヨットレースをやりたいというのがタモリさんの夢でした。ですが、いくら著名なタモリさんでも、ヨットレースを主催するのは難しいだろう、というのが大方の関係者の意見でした」
これまで、いくつもの難しい番組企画を成立させてきた金井さんは、その高い交渉能力、プロデューサーとしての手腕を、タモリのためにいかんなく発揮した。参加費を抑えるために、たくさんの企業に協賛を求めて回った。
「そうして09年、『日本一楽しいヨットレース』を謳い文句にスタートしたのが『タモリカップ』です。大会プロデューサーとして毎年開催を続けながら規模を拡大させて、昨年には237艇が参加する日本一のヨットレースにしたんです」(ヨット関係者)
タモリカップをここまで大きく育ててきた2人。その絆はいつしか揺るぎないものとなっていた。しかしタモリにとってかけがえのない存在である金井さんに、病魔が襲い掛かる。15年5月、検診を受けた金井さんの体にがんが発見されたのだ。金井さんの友人が語る。
「肝臓がんでした。精密検査の結果から、医師は『余命3年』と告げたそうです。金井は人一倍明るい性格なので『まいったよ~』と笑顔で僕らには話してましたけど……」
医師からの余命宣告に、本人以上にショックを受けたのがタモリだった。
「彼の病状を聞いたタモリさんは、ひどく驚いていたようです。そして金井に向かって突然、『おれ、引退するから。ヨットで世界一周しよう』と言ったんです」(金井さんの友人)
複数のレギュラー番組を抱え、芸能界で不動の地位を築いたタモリ。だが、それらすべてを投げ捨ててまで、タモリは金井さんに生きるための希望を与えたかったのだ。しかし、金井さんの病状は予想以上に早く悪化していった。
1月末、家族以外面会謝絶だったがタモリだけは面会を認められた。やがて金井さんは意識を失う。ベッドサイドから見守っていたタモリはこんな提案を。タモリはジャズ好きなことで有名だが、金井さんもサックスが趣味だった。好きな音楽を聞いたらもしかして――。
「音は聞こえているかもしれない。耳元で音楽を流してあげたらいいんじゃないかな」
しかし今月9日、午前2時4分。タモリの願いもかなわず、金井さんはついに帰らぬ人となった。冒頭で紹介した葬儀会場でのこと。身じろぎもせずに金井さんの遺影を見つめ続けたタモリは、出棺直前、真っ先に棺に歩み寄った。
「タモリさんがとくに弔辞を述べることはありませんでした。でもこのとき、棺の中には2人が育てたタモリカップのパンフレットも収められていました。そのパンフレットに目を落としながら、タモリさんは故人の顔の横にそっと花を置いたんです」(前出・芸能関係者)

